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邪馬台国が占いを盲信していたとするなら、現代の我々は何を盲信しているのか

3行まとめ

  • 我々は古代人を「非科学的」と見下しがちだが、300年後の未来から見れば我々も十分に「非合理的」である。
  • 現代人が盲信する「神」の正体は、SNSのアルゴリズム、予測不能な市場経済、そして見て見ぬふりという名の怠慢かもしれない。
  • 卑弥呼の占いが当時の社会OSだったように、我々の「盲信」もまた、この複雑な時代を生き抜くための認知ツールと言える。

我々も、未来の「笑いもの」かもしれない

私たちは、卑弥-呼の占いを信じた邪馬台国の人々を見て、「科学がなかった時代だから」「純朴だったんだな」と、どこか見下したような気持ちで歴史を語ってしまいがちです。

では、ひるがえって現代の私たちはどうでしょうか?

300年後の未来人が、私たちの時代の記録を博物館で見たとき、同じように思うのかもしれません。「21世紀の人々は、こんな奇妙なものを信じていたのか」「なんと非合理的な社会だったんだろう」と。

この記事では、未来の歴史家が驚くであろう、私たちが無自覚に「盲信」しているかもしれない現代の価値観や信仰の正体を探っていきます。


1. 『アルゴリズム教』への絶対的帰依

未来の歴史家は、21世紀を**「デジタルな暗黒時代」**と呼ぶかもしれません。人類史上最も簡単に知識へアクセスできたにも関わらず、自ら思考を放棄した時代として。

未来の教科書の記述(想像) 「21世紀の人々は、『アルゴリズム』という名の見えざる神を崇拝していた。彼らは自らの友人関係、消費活動、さらには恋愛や結婚相手の選択まで、この神の神託(レコメンド)に委ねていた。『いいね』と呼ばれる電子的な承認の数で自己肯定感を得ており、その数字を得るために奇妙な踊りを披露する者もいたという。」

  • ソーシャルメディアへの信仰: フォロワー数や「いいね」の数を、人間の価値そのものであるかのように扱う風潮。これは、未来から見れば極めて奇妙な儀式に見えるでしょう。
  • 検索エンジンの神格化: 検索結果の1ページ目、特に一番上に表示されるものを「真実」だと無批判に受け入れる姿勢。これは、古代人が亀の甲羅のひび割れに神の意志を読み取ろうとした行為の、デジタル版と言えるかもしれません。

2. 『市場原理教』への献身的な奉仕

未来人は、我々の働き方と経済システムにも首を傾げるはずです。

未来の教科書の記述(想像) 「当時の人々は、人生の大部分を『労働』に捧げた。特に『通勤』と呼ばれる、自らの肉体を毎日同じ場所へ運ぶための集団的儀式に、膨大な時間とエネルギーを浪費していたことは理解に苦しむ。また、彼らは『市場』という名の気まぐれな神を信仰し、実体経済とは無関係に乱高下する数字(株価)に一喜一憂し、その日の気分を決めていた。」

  • 「会社」という部族への帰属: 人生の満足度を、特定の営利組織への所属に強く依存する生き方。組織への忠誠を誓い、その中で評価されるために人生を最適化する姿は、未来の自律した個人から見れば、一種の部族社会のように映るでしょう。
  • 金融市場という名の占い: 専門家ですら予測不可能な「株価」の動きを、人々は様々な理屈(データ)で分析し、未来を占おうとしました。天体の動きから国家の運命を占った古代バビロニアの占星術と、本質的に何が違うのか、未来の歴史家は問うはずです。

3. 最大の奇習、『見て見ぬふり教』

しかし、未来人が最も理解に苦しみ、そして我々を厳しく断罪するであろう点がこれです。

未来の教科書の記述(想像) 「21世紀の最大の謎は、彼らが自らの文明が惑星の気候を不可逆的に破壊していることを、科学的に明確に知っていたという点にある。それにも関わらず、彼らは短期的な経済的快適さのために、化石燃料を燃やし、使い捨ての製品を大量生産し続けた。これは、我々から見れば、自らが乗る船の底に、楽しげに歌いながら穴を開け続けるような、集団的な自殺行為に等しい。」

古代人が日食を恐れたのは、その原理を知らなかったからです。しかし私たちは、科学的なデータという明確な「神託」がありながら、それを無視しました。この集団的な認知的不協和は、未来の歴史家にとって最大の研究テーマになるでしょう。


【結論】あなたの「当たり前」は、未来の「ありえない」

  • アルゴリズム
  • 市場経済
  • 短期的な快適さ
  • そして、気候変動への見て見ぬふり

これらが、300年後の未来から見た、私たちの時代の「鬼道」なのかもしれません。

卑弥呼の時代の人々が、不確実な世界を生き抜くために占いに従うという、当時としては極めて合理的な選択をしたように、私たちもまた、この複雑怪奇な社会を生き抜くために、現代特有の「思考停止の拠り所」を盲信しているのです。

100年後、この記事すら「21世紀人のナイーブな自己分析だ」と笑われている可能性すらあります。歴史の視点とは、それほどまでに面白く、そして残酷なものなのです。